◆◇橘町由来◇◆


さつきまつ 花橘の 香をかけば
昔の人の 袖の香ぞする

古今和歌集 夏 一三九 よみ人しらず


五月を待って花開く橘の花の香りをかぐと、昔親しんだ人のなつかしい袖の香りがすることよ



 尾張二代藩主光友が、広小路から熱田に通じる道(本町通り)の城下町の南端を通りかかったとき、ひっそりとたつ古着屋に目がとまった。

当時のこの地は千本松原と呼ばれるほど松が一面に生茂っており(松原町)、うっそうとしていたにちがいない。いくら城下に通じる海道筋でもその南端は物寂しい地であったであろう。そんな中で古着屋がつつましやかに店を開いていたことに、光友は心動かされたようである。

寛文四年(1664年)十一月、城に戻った光友はこの地に町を建設することを計画する。町名は『古今集』夏一三九の題しらず詠み人知らずの「さつきまつ 花橘の香をかけば 昔の人の 袖の香そする」の一句を選び、「橘町」と名付けた。光友がどうしてこの歌を思い浮かべたのかは想像に難くない。たたずむ古着屋の店先付近には橘の実がなって、かぐわしい香がしたのであろう。

 こうして橘町を作った光友はこの町に古鉄・小道具の専売特許を与え、古鉄・小道具屋を商いとする者を集めた。その後、七代藩主宗春の代になると、富士見原遊郭、大須・若宮八幡の芝居小屋を含めた歓楽街に隣接し、橘町は商業地であると同時に、芝居小屋などが立ち並ぶ賑わいを見せた。