◆◇橘座 −寛文四年〜◇◆

町内には本校が「芝居濫觴跡(橘座)」に建っていることを、ご存知の方は多数おられるであろう。ところで「橘座」とはどのような芝居小屋であったのであろうか、数回にわたり記述していこうと思う。ご精読いただき、とくに、町内の皆様からのご教授をお願いしたい次第である。
 橘町や橘座について調べていると、板倉久蔵著『橘町』という本に巡り合った。まことに詳細にわたり橘町のことが書かれており、大変に勉強させられた。その中に、町内の年表があり、橘座についての記述欄が取り上げられている。これを基本として記していこうと思う。

 本校玄関横の案内には濫觴の時を「寛文5年(1665)」としているが、名著『橘町』では「寛文4年(1664)」となっている。一年の違いがあるので、おやっと思って、案内板の続きをよく読んでみると、「………春秋の興行が許された。」と記入されている。なるほど春秋の興行となると寛文5年ということで『橘町』とも一致する。町内の先学に敬意を表し、濫觴時は寛文4年としたいところである。
 ところで、当時の芝居小屋はどのような様子であったのであろうか。時代は第四代将軍家綱、テレビでは水戸光圀公が諸国を漫遊して活躍していたころである?興行内容をみると、浄瑠璃芝居や歌舞伎が行われていることから、ある程度の舞台の広さが必要であったであろう。実際に橘座の大きさを示した記録は『尾陽戯場事始』に「町ハ掛所前横町と大仏との間、町の東側に芝居場所とて明地あり。少東え入りて、正面南向にして三間の舞台唐破風、あつこけらぶき。当府にて此芝居のごとき花美なる事は、古今これなしぞ。」とあるのが最も古いものである。舞台は三間(5.46m)の唐破風で、屋根は厚柿ぶきとある。ヒノキの厚い板屋根が当時、たいへんに立派なものであったことがうかがえる。この記録は芝居興行が許された寛文4年から約67年後(享保16年ごろ)のものと思われるので、いささか当初の趣とは異なるかもしれないが、それに近い芝居小屋であったことは確かであろう。
 『橘町』にある克明な記録に従うと、元禄期(1688〜1704)から享保15年(1730)の間の橘座に関する記述がほとんどない。あるのは、元禄8年(1695)道化、佐渡島傳八一座の上演の記録。元禄12年(1699)芝居に女方無用の令が発せられたこと。そして享保8年(1723)と享保15年に諸士並びに帯刀者に観劇禁止令が出されたことだけである。その中で、享保8年の記述がおもしろい。「諸士並に帯刀者に観劇を禁ず然れ共年を経る儘に行はれず」とあり、禁止令は出るが、年月が経つと守られなくなっていく様子が解かる。何となく名古屋城下民の芝居好きな一面が、覗き見できておもしろい。時の八代将軍はテレビドラマでも有名な徳川吉宗である。吉宗の 政策はご存知のとおり、旗本・御家人に武芸を奨励し、倹約令に代表されるように質素・倹約を旨としている。芝居興行が吉宗の意に反し、まして帯刀者が観劇とは許されなかったようだ。ところが名古屋城下では禁止令が守られず、7年後に再度発令され強く圧力をかけてくるのである。これはどうしてであろう。

次回につづく。