◆◇橘座の歴史◇◆
慶長14年(1609)
  熱田で女歌舞伎興行がある
寛永(1624〜1643)の初めころ
  巾下の次衛門という興行師が女歌舞伎を上演
明暦年間(1655〜1657)
  本格的歌舞伎興行が行われる
明暦2年
  熱田の芝居興行、若衆歌舞伎を興行
明暦3年8月24日より
  熱田神社の南西の亀井山円福寺で「海道くだり」という舞狂言を上演
『尾陽戯場事始』
若衆歌舞伎の人気スター太夫右近源左衛門が来名
寛文4年(1664)
  二代藩主光友が橘町に芝居地を設ける
千本松原ができ、橘町ができる
「此所はじめ千本松といひて熱田への海道なりけるが、近き比町となし工商寄つどいて増々繁昌せり、かゝるゆたかなる折なれば、公儀よりゆるされを蒙りて狂言あやかりの芝居をかまへ、弥々町もにぎはしくなれり。」
『尾張大根』
若衆歌舞伎を上演。承応元年(1652)に江戸では若衆歌舞伎は停止されていたにもかかわらず、停止されてから5年後に興行
*停止が5年も過ぎ規制が弛んだから
*尾張と江戸の距離があり、尾張の芸能好きの土地であった
 から
 さらに、尾張は幕府に対しある程度独立性を保っており、幕
 府の意向にもかかわらずある程度自由に振る舞えたから
*実態は若衆歌舞伎でも「物真似狂言尽し」と称して押し切っ
 たから
橘町芝居の開設により名古屋には常設の芝居小屋ができた
「町ハ掛所前横町と大仏との間、町の東側に芝居場所とて明地あり。少東え入りて、正面南向にして三間の舞台唐破風、あつこけらぶき。当府にて此芝居のごとき花美なる事は、古今これなしぞ。」
『尾陽戯場事始』「橘町裏大芝居図」
享保・元文(1716〜1741)ころ
  七代藩主徳川宗春治下
積極政策により多数の芝居場所が隆盛を極める
元文4年(1739)宗春失脚
  芝居全面禁止
10年後 徐々に復活   池山晃の論考
寛保3年(1743)〜4年
  小寺玉晃『続尾陽戯場始志』
七寺・大須真福寺において「菰縣」の粗末な小屋で地役者がかりの芝居再開
延享2年(1745)〜3年
  両所に常芝居復活
上方役者が訪れる
寛延元年(1748)末
  一旦全面禁止
寛延3年3月
  再度七寺が復活
徐々に復活が始まる
宝暦年間(1751〜1764)
  清寿院、大須も復活
上方の役者を迎えて興行される
宝暦10年(1760)
  若宮も復活
明和5年(1769)
  稲荷も復活
小屋の大きさ・道具・衣装などの制限緩和
  *七寺・清寿院・大須・若宮・稲荷の5ヵ所で交互に興行する
かなりの活気
天明7年(1787)
  興行が沈滞   小寺玉晃『名古屋勾欄続々誌』
寛政4年(1792)
  芝居興行は復活を始める
享和元年(1801)6月
  橘町芝居が再建
9月若宮芝居再建、同2年7月大須芝居再建
享和2年5月
  「橘町芝居へ、大芝居役者御免に相成、藤川八蔵・中山文五郎・中山一徳・松本米三・四人加入」『金明緑』
文化元年(1804)7月
  稲荷芝居再建、同2年7月清寿院芝居再建
  名古屋の芝居は五芝居といわれ、橘町裏・清寿院・若宮・大須・稲荷であった
上方役者の通常興行の一部となっていた
文政元年(1818)
  稲荷芝居活動停止
文政2年4月
  岩井半四郎・松本幸四郎が江戸からやってきて橘町裏で興行し大評判
このころから江戸の芝居も名古屋でなじむようになった
上方の興行としての名古屋の位置づけに変化
天保の改革のころ
  三都の芝居ほど規制が厳しくなかった名古屋に東西の役者が集まって興行する
文久3年(1863)
  橘座大風雨のため芝居小屋を吹き飛ばされ中断する
明治3年(1870)
  芝居小屋を橘町裏に再興、中村座とする
明治24年(1891)
  橘座、濃尾地震で崩壊
平成14年(2002)
  111年ぶりに橘座を復活予定


  高力種信『金明録』
小寺玉晃『続尾陽戯場始志』『名古屋勾欄続々誌』『見世物雑志』『勾欄藪の中』
      『尾張芝居雀』『張府永楽記』(京都大学本『役者附』)